一万円札からの学び

福澤諭吉という人物をご存知ですか?一万円札に顔が載っている人です。財布の中に入っててほしいあの方です。

実は、福澤氏は幼いことからかなりのわんぱくだったようです。自伝を読むと、このようなエピソードが出てきます:

ソレカラ一つも二つも年をとれば、おのずから度胸もよくなったとみえて、年寄などの話にする神罰冥罰なんということは大嘘だとひとりみずから信じきって、今度はひとつ、いなり様を見てやろうという野心を起こして、私の養子になっていた叔父様[論吉の父百助の弟〕のうちのいなりの社の中には何がはいっているかしらぬとあけてみたら、石がはいっているから、その石をうっちゃってしまって代わりの石を拾うて入れておき、また隣家の下村という屋敷のいなり様をあけてみれば、神体は何か木の札で、これを取って捨ててしまい平気な顔をしていると、まもなく初午になって、幟(のぼり)をたてたり太鼓をたたいたりお神酒を上げてワイワイしているから、私はおかしい。「ばかめ、おれの入れておいた石にお神酒を上げて拝んでるとはおもしろい」と、ひとりうれしがっていたというようなわけで、幼少のときから神様がこわいだの仏様がありがたいだのということはちょいともない。

福翁自伝

(引用先はこちら)

あなたは、何に信頼していますか?何に祈っていますか?あなたが神と呼んでいるものは子供のいたずらで捨てられてしまいますか?

福澤諭吉のいたずらについて読むと、聖書の中に書いてあることを思い出します:

この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。

使徒の働き17章24−25節

聖書が教えている神様は、天地を造られた方です。人の手が作った社(やしろ)に入るような小さい存在ではありません。この神様は、遠く離れた場所にいて近くことのできない存在ではありません。逆に、私たちのところに来てくださいました。

私たちが自分勝手な道を歩み、神様に背き、他の神々に使えていた時に、神様は私たちのところに来ました。「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。」とイザヤ書3:6に書いてあります。

神様は、私たちの背きの罪をイエス・キリストに負わせました。イエス・キリストが私たちの罪の代価を代わりに払ってくださったことによって、私たちは背きから、神様と和解することができます:

すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。

コリント人への手紙 第二 5:19

何を信じるのかは自由ですが、聖書の神様に目を向けた方がいいのではないでしょうか?