12. 「見よ。わたしは、イスラエルの子らのうちで最初に胎を開いたすべての長子の代わりに、イスラエルの子らの中からレビ人を取ることにした。レビ人はわたしのものとなる。
民数記3:12−13
13. 長子はすべて、わたしのものだからである。エジプトの地でわたしがすべての長子を打った日に、わたしは、人から家畜に至るまで、イスラエルのうちのすべての長子をわたしのものとして聖別した。彼らはわたしのものである。わたしは主である。」
イスラエルの人たちがエジプトで奴隷だった時、エジブトの神々にさばきを下しました(出エジプト記12:12)。人であれ家畜であれ、長子が殺されると言うさばきでした。
しかし、神はこのさばきを逃れる方法を教えました。そして、多くの人が助かりました。神様はその時に助かった長子たちは自分のために聖別されたと教えています。このあと、レビ人はその長子たちの代わりに神に使えますが、この2節で私たちは重要なことを学びます。
1:主の力によって救われた人の命は自分のものではない。
もし自分は神の力によって救われていなければ、新しい命はありません。自分が好き勝手にするために与えられたものではありません。
2:救われた者は神に使えるために聖別されている。
GOO辞書によると、聖別は「神聖な用にあてるため物または人を一般的・世俗的使用から引き離して、区別すること」を意味します。もちろん民数記はイスラエルの民について書かれていますが、新約聖書で似ている言葉があります:
神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。(ガラテヤ2:19ー20)
イエスの力によって救われた人は、自分のうちに生きておられるキリストの力によって生きて神に使えるべきです。神に使えるために救われており、神の力によって使えることができます。
今日どのようにしてイエスに使えますか?